先日、この10年ほどや、生まれてから今までの「振り返り」をしました。主に、何年にどこからどこへ移動したかについて。
それで今までの運気の流れがどれくらい滞ったりしたのかを、気学の理論を使って考察してもらい、2021年の過ごしかたを考える時間を設けたんです。その詳しい内容は門外漢なので書きません。今回はその時に感じたことを。
引っ越しというのは、多くは、進学や仕事に絡んで発生します。年の途中でも、何か人生のポイントが発生して引っ越すことが多いと思います。なので、この振り返りをする前、簡単にできると思っていました。
ところが、どこからどこへは覚えてるんですが(と言っても地図にピンを立てるレベルで思いださなくてはいけないので、これも結構大変でした)、時期が思い出せないんです。
大学入学や厚生年金の票があるタイミングなどは分かりやすいですが、イレギュラーで引っ越した時もあります。
それが何月か覚えていないんです。引っ越しの準備をした時が暑かったのか寒かったのか、どんなイベントが前後にあったのか、覚えていそうなものですが、ほぼない。
社会人になってから、パティシエや小売業など季節感を大事にする仕事を続けてきたはずなのに、それと自分の実生活がリンクしていなかったわけです。
少しショックを受けました。
今思えば家と職場の往復ばかりで、車通勤だったこともあり、ほんものの自然に触れる時間はほとんどありませんでした。
机上の季節感のみ。
季節を感じずに、季節感を追っていた。
それだけ忙殺されていたのかもしれません。仕事自体はとても面白く感じていたし、好きなこと、面白いと思えることでお金をいただいて、楽しく生きてると思っていました。
でも、それはとてもとても狭い、世界のほんの一部の事だったようです。
KEBURIにまつわる記憶は、今のところ自然と共にあります。物件を見つける為に歩き回ってアスファルトからの熱で肺が焼ける気がしたり、真夏の神社の湧き水の冷たさに脳まで回復するのを感じたり。まちわびた金木犀の香りを、ご招待いただいた岐阜の山中で嗅げた嬉しさも、数十年ぶりに霜柱を踏む高揚も、その場の空気と一緒に残っています。
街中に在っても、雪の中で除夜の鐘をつかせてもらったり、冬のバイクはとても寒いからマフラーをぐるぐる巻きにして出かけたり、エアコンが効いて来ないうちにブランケットにくるまったり、自然の巡りに伴う行動がある。
と言っても、まだ話が持ち上がって半年しか経ってませんので、記憶が鮮明なのは当たり前なのかもしれませんが。
それでも。五感と自然と繋がった記憶たちがこれからも、柔らかな雪のように、散る花びらのように、積もっていくといいなと思います。
さて、今日はどんなことが積もるかな。