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らせんに昇る

線香の煙も、シーシャの煙も、条件が整うと螺旋状にくるくると昇っていきます。それを眺めるのがとても好きです。
KEBURIの話が持ち上がった頃には、水たばこのお店で煙を吸いながら、煙の様子を眺めつつ打ち合わせをしていました。それで、水たばこの用具を備品として置こうか、という話も出たのですが、煙が確実に螺旋になるまでついつい吸いすぎそうで、購入するに至れないでいます。

煙がくるくると螺旋を描いて昇るのは、ベクトルで描くとちょうど、一方向へまっすぐ進む矢印と、その周りをくるくる回る矢印になり、中学だかで習ったコイルと電流の図に似ています。この2つの矢印が合わさった運動は、自然のさまざまなところに登場します。

さまざまなところに共通して登場するモノゴトは、きっと本質に近いのだろうな。
ぼんやりとそんな気がします。
世界はごく僅かな(もしかしたらたった一つの)方程式によって生み出されていて、その基本となるいくつかのモノゴトの相似形で成り立っているのだろう。
なにものかが連続して直線的に運動する場合、実際には螺旋を描くのも、この一つじゃないかなと思います。光の波も、そうして進みます。

ところで、螺旋に昇るのを真上から見たら、どう見えるでしょうか。

円がぐるぐるしているだけです。
ぐるぐるという動きも分からないかもしれません。
同じところに居るように見えて、実際には上に登っている。
円周上の同じA地点に見えても、そこは一層目のAと二層目のAであり、別の地点ということになります。

いつも通りの毎日。
かわり映えのない日々。
でも、それは螺旋を描いているはず。
昇るのみが良いとは限りません。
行って戻って、もあるかもしれません。
ただ、同じA地点ではない、という事実。
そしてそれは、煙のように、捉えどころはなく、消えてしまうもの。その日、その時にしか味わえないもの。
そんな一期一会の毎日を大切に過ごしたいものです。